00:00:00 杉森典子 :戦時中はどこにいらっしゃって、どんなことをしていらっしゃいましたか?
中垣齋(いつき):戦争中は長崎県の佐世保市って所に住んでいました。佐世保市は私の先祖からの土地でして、で祖父も海軍の軍人でしたし、父も海軍の軍人でしたし。あの戦争に勝つとは思っていませんでしたけれども、というのも父が「どうもこれは大変なようだ。」っていうことを時々口にしていましたので。で父は同居はしていませんで、父は東京の海軍省に勤めておりました。で祖父は海軍をやめてから、あの、銀行に勤めておりましたので 毎日 決まった時間に、だいたい10時頃から出かけていって4時前には帰ってくるというようなかんじでしたし。で空襲は絶対にないっていうようなことをしょっちゅう言っていました。「ここは大丈夫だ。ここは山の上だから大丈夫だ」と。
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でも近所から聞こえてくる声っていうのは、なんかこのあたりに空襲で全部、あの、家を焼き払ってそこに米軍の住宅を建てるというようなことを。学校の帰りにどの友達が話したのか知りませんけど、小耳にはさんで母に言いましたなら、母は「おじいちゃまは絶対ここを動くってことがないからしょうがないのよ。たとえ空襲になってもここは山だから大丈夫でしょ。」と言っておりましたら、 昭和 20年の6月29日に空襲がありまして、でその時たまたま父が東京の海軍省から転勤になりまして駆逐艦の司令になることになったんですね。駆逐隊司令に。それで休暇をちょっと利用して、その晩帰ってきたんです。6月28日の夕方家に帰ったみたならば、父がいるのでびっくりしました。で、その6月28日がちょうど女学校の二年生の身体検査が、で翌日くらいから動員に行かされるんだというんで、それで私はどういう訳か心臓がちょっとおかしいんじゃないかって言われて。その心臓がおかしいって、体がちょっとおかしいといわれることが大変不名誉な感じがいたしまして。家に帰って父に「 こんなこと 言われちゃったんだけど明日再検査なのよ」って話しましたらば、父が軍医はそういうふうに言うんだよって、お前の体ってそんなちゃちにはできとらんと、そんなことを言いまして、それであぁよかった何とかなるわねなんていって。
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夜寝たらしばらくして、ダダダダダー!っと二階から父が降りてきて「空襲だ!危ない」って。「すぐ出ろ!」って言ったんですね。何も空襲警報も鳴らないし、何も鳴らないんですけどハワイの戦争にも出かけておりましたので、米軍の飛行機の音にかなり精通していたんじゃないかと思います。そのうち、ぱらぱらぱらぱらっと雨のような音がして、それが油だったらしくて、そのあと大きな焼夷弾の親玉が上から落ちてきて、家のちょうど真上 あたりで 、いくつもにわかれたっていうのを、その丘の上に住んでいた私たちは見ていませんけれども、丘の下からなんとか山の方に逃げようととしてうちのあたりまで上ってきた人たちはそれを見たって言うんですね。
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で、家には防空壕が二つありまして、芝生のとこにあった防空壕は土を掘った防空壕で、それから家の裏手の方に横穴防空壕っていうのを掘ってありまして、そこがいいんじゃないかっていうんでみんな入ったんですけれども、父がそこも危ない!って、お前たち出ろ!と言いまして慌てて母が先頭に、そしてその後を弟たちが二人出て私と、そしてそのころ女中さんがいたんですけど、女中さんまで出たその 後 に、その防空壕の入り口にまた焼夷弾が落ちて、それで父と兄とそれからそのころ祖父がおりましたけど祖父は出られなくなりまして、で私たちは母につながって母が逃げた方向にいきました。母は二、三日前に海軍の兵隊さんが隣の社宅に来て社宅のお庭を掘って、社宅の前の道路でしょうね、道路を掘って自分たちの手ではとても掘れないほど深く兵隊さんが掘っていたと。その防空壕なら大丈夫じゃないかなと見てたらしいんですね。私はそうゆう防空壕がそこにあるって知りませんでしたけれども、母の後を追っかけて。私が靴が脱げたんですね。慌ててこう振り向いて靴を拾おうとしたらもう靴には焼夷弾が落ちててどうにもならないって 感じで 、それで片方は靴はき、片方は裸足のままその防空壕に入りまして。
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それからが大変だったんですね。もうたくさんの人が入りましたけど、でもだんだん、だんだん息苦しくなってきて。そのうちあんまり息苦しいから私が外にちょっと覗こうとしたんですね。そしたらまあ熱風でバーっと着ていた物から何から全部剥がれる感じのすごい熱風がきまして、顔から腕からぜんぶ火傷だらけになりまして、そん時は痛くも何ともなく、翌朝そこから出てみたらたくさんの方が亡くなってて、私はだんだん目が見えなくなってきて、目が見えなくなったっていうのはその火傷が膨らんできてだんだん膨らんできて目が開かないほど膨らんだ という だけで目玉をやられていた訳でも何でもはないんですけれども。
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で父と兄とその祖父は、ちょうど脳梗塞(のうこうそく)をおこしていた祖父は、結局燃え盛る中を逃げるのに敷き布団を防火用水にどっぷり浸けて、それで片方燃えてる炎を避けながらまた別の山の方に逃げたらしいんですね。翌日父が一生懸命になって母の死体を探したらしいんです。隣のお寺さんに、死体がいっぱい並べられている所を「おい」!って、「水色の洋服を着たやつだぞ!」って言って、もう一生懸命探したらしいですけどいなくって。そしたら何のその。家の隣の社宅の敷地の中にあった 防空壕 からのそのそ出てきて、で結局父がたまたまその時帰ってたから家の家族は全部助かりましたけど、防空壕の中にはもういっぱいなくなった方がいてね、出て、這い出してきたのはうちと何人かだけだったんですよね。
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まあそんな感じでそこからまあ終戦まではもう母の田舎の方に越しまして、そうこうしているうちに終戦になってしまったんです。父はその後すぐあのまた呉(くれ)の方の、自分のお船が停泊している方に出て行ってしまったんですけれども、なんだか戦争って言うのは、私には、何ですかもう昭和20年の空襲の前にはたいしたこともなんにもなく、ただ食料がなくって、それでヤミをしてはいけないという おじいさん の教えのとおり、ヤミを一切しないでなんとか食いつないでいくっていうのがまあ大変で大変で。時々うちにいた女中さんが平戸(ひらど)の人だったもんですから平戸の実家の方に帰って少しお米と海産物を抱えて帰ってきてくれて、それで食いつないでいたような感じですね。まああの新鮮なお魚も配給ではあまりありませんでね。なんですか母がよくあのスケソウダラの配給をもらちゃ嘆いておりました。スケソウダラっていうのはあちらの寒い方のところでよくとれるんですよね。九州じゃないから延々ときたお魚っていうのは新鮮なお魚を食べてる人にはちょっと食べづらいものでした ね 。
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まあ後から終戦の後に、あの私は2ヶ月、3ヶ月かかってやっと火傷を治して、それで学校に出てみましたらば、その空襲で同級生が何人か亡くなってたんですよ。みなさん防空壕の中で窒息死だとか焼死にとかって。惨いことでございました。
杉森:ありがとうございます。先ほどお見せした新聞には難しい漢語の敬語が天皇陛下に使われていたり、一番右上に、あの、だいたい右上に写真を掲載するとかいろんなきまりがあったんですけれども戦後は、言葉の上での民主化ということを押し進めるために簡素化されてきまして、で天皇誕生日の 新聞記事 なんかも社会面の下の方になってきたりしてきております。でも、イギリスのチャールズ皇太子なんかが日本に来る時に新聞は「皇太子様はチャールズ皇太子に会われた」という風に日本の皇太子にだけ「様」をつけてチャールズ皇太子にはただ皇太子という風に呼び捨てみたいにしてまして、そういう日本の皇室にだけ敬語をつけることに対して海外のマスメディアから批判の声もあがっているんですけどもそういう批判についてどう思われますか?
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中垣:皇太子に「様」つけるのがおかしいんで、天皇陛下っていったら陛下がもう敬語みたなもので、皇太子も敬語みたいなものだと思いますから、「 皇太子様 が」っていうのも変な感じがしますね。あの「皇太子がチャールズ皇太子に会われた」でいいんじゃないでしょうかね。何か私最近ね、あの今の話をはっきりよく分かっている訳ではないんですけども、メディアの方たちが間違った言葉を使っていらっしゃるなというのはしょっちゅう、しょっちゅう感じますね。おかしいはあれ。あれ敬語の使い方、ちがっているんじゃなかった?って、主人としょっちゅうそんなこと言ってますけど。
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杉森:使い方ではまだ例えば普通大人が子供には敬語を使わないんですけれども、あの、天皇家の赤ちゃんにだけ「愛子様がお泣きになった」みたいに、「様」を赤ちゃんでも 付けている んです。で例えばそれは天皇家だからと思っていても赤ちゃんなんですよ。それで例えば同じ記事、同じ新聞の面にそういう「様」がついてる赤ちゃんの記事があって、普通の赤ちゃんの記事がもしあったとしてもそこには「様」とかついてない訳ですね。そういう差をつけている赤ちゃんにも「様」をつけて差をつけているマスメディアの敬語使いをどう思われますか?
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中垣:愛子様は愛子様でお生まれになった所が天皇陛下のご家族ですから普通の一般の人とはちょっと違っていいんじゃないかと思います。赤ちゃんだからだとか年上だからとかっていう、赤ちゃんだからってこともないんじゃないでしょうかね、愛子様に対しては。
杉森:ありがとうございます。それでは雅子さん のお父さんの小和田さんが雑誌のインタビューに答えて、自分の娘に会ったということを言う時に、「妃殿下には先月お目にかかりました」というふうに敬語を使って答えます。この敬語使いに違和感とかお持ちになりますか?
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中垣:いいえ持ちませんそれは。ていうのは、皇太子妃におなりになったんですから、もう自分の娘ではあるけれども皇太子妃に差し出した方はもうそこでキッパリとけじめをつけるべきだと私は思っております。
杉森:はい、ありがとうございました。それでは最後に、このことはぜひ言っておきたいことがありましたら是非お願いします。なんでもいいです。
中垣:別にありませんけれども私たちは女学校の時に 長刀 だとかって人を殺すことだとかよ武道やそんなことにばっらり力を注いで大した勉強をさせていただけなかった。自分でしなかったという面もあるかもしれませんけれども、もう学校では体を鍛えることと、どうゆう風にして生きていくかと、どういう風にというのはその自分をどのように律して生きていくかというそういうことばかりに力を注いで何の勉強もしなかったんですね。残念だったっていう気がしますけれども。
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その時におかしくても笑わないと、悲しくても泣かないって言う風な教育を受けました私たち。何ですかあんまり自分の感じたことを率直に 表現してはいけない と。それから悲しくても泣かないっていうのはやっぱり自分の子供をお国に捧げたりなんかした方が戦死したり何かそういう感じの時にも皆さんお母様方は泣かないで。陰では泣いてらしたと思いますけどね。でもそういう身の律し方っていうのかしら大切なんじゃないかなと。近頃の若い方があまりにも自分本意に生きてらっしゃるのを見ると時々思います。昔がまちがっていたことはたくさん間違っていたと思いますけども、全部が間違ってたんではないっていう気がします。
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杉森:はい、 ありがとうございました 。
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