00:00:00杉森典子: [戦後の新聞の皇室敬語の簡素化をどのよう]に感じてらっしゃいますか?
加須屋重雄 : 最近は今から思えば非常に行き過ぎていた様な気がしますけど、最近はちょっとそれがなおざりになって、天皇陛下が例えば相撲を見においでになった時も「天皇陛下が来ました」って言う。そういう発音をNHKのアナウンサーもおっしゃっていたから。やっぱり「天皇陛下が御出でになりました」ぐらいの言葉にすべきだと思います。
杉森 : この先ほどの新聞は昭和20年の4月29日位のものだったんですけど、加須屋さんは戦時中はどこにいらっしゃって、どんな事をしてらっしゃいましたか?
加須屋 : 戦争中は昭和16年から鴨緑江水田っていう、鴨緑江の7つの湖でダムを作って、鴨緑江全体を水力発電所の連続した川にしようという計画で水豊(すいほう、地名)は70万キロの発電所ができたわけです。あの当時一台10万キロっていうのは世界最大でして、そこで…
杉森 : それはどこにあったんですか?
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加須屋 : 平安北道(へいあんほくどう)朔州郡(さくしゅうぐん)九曲道という所ですけどね。鴨緑江の新義州から上流に120キロくらい上流に行ったところです。鴨緑江の本流をせき止めてダムを作って、その時はダムの大きさはエジプトのクフ王のピラミッドの二割がた大きいと言う、それくらいのダムを建てた時でした。それで貯水池が琵琶湖の半分。霞ヶ浦の二倍でしたね。私はそこで昭和16年から就職して、台南高校を卒業して、16年から終戦の翌年まで勤めていました。終戦と同時に日本人は全部クビになりまして、我々限られた人間だけ20人ばかりの人が、朝鮮人に電気の指導をするということで。それまでは朝鮮人は図面もろくに見てなかったんですよ。図面の読み方から教えなきゃならん。そういう状態で、我々が教官役になって色々と質問があったら教えてやるというようなことで(した)。1年間そういう指導力として使われました。
1年経ってから引き挙げてきました。当時の所長だった広田さんという方が団長で、一番最後のバスで20名くらいに別れて引き挙げたんですけども、最後のバスで広田さんも同乗されて、日本人が20数人乗って、もう持てるものはみんな荷物にして、大きなリュックサック作って、自分で。防寒毛布で作って、その中にもう着物から何から色々なものを入れて、座席の間にリュックサックを並べて、その上にあぐらかいて来たんですが。朔州郡の郡役所から通行許可証も取って、どこへでもフリーパスだということで出発したんですけど、一晩乗ったところで平壌の手前で「お前たち38年間朝鮮を搾取していて、バスで帰るとは何事だ。おりて行け。歩いて帰れ」と、そう言われて、そこからとぼとぼと歩き出したわけです。
部落を通る度に二列に、一列ずつ道路の両側に立たされて、荷物を前に広げてどんどん...当時、保安隊と称した朝鮮のいわゆる民兵みたいなのが、武器はろくに持ってなかった様でしたけど。もう好きなものを皆、自分たち、みんな勝手に取って行ったんですよ。それで38度線を越すときには私らはリュックサックを片手にぶら下げて帰って来たような状態ですね。もうひとつ一山越せば38度線に達するという時に、写真とか印刷したものは絶対に持って行ったらだめだと。一人でもそういうことを違反したものがあったら、全員の責任で残されるから、ということで。ずいぶん峠の上に写真やら手紙やら…賞状もあったし色んなものが雑多に投げられていました。捨てられていたんですね。 それでそこの山を通り越してもうすぐ38度線を越えるという頃になったら、最後にロ助(ロシア人)が出て来て、女と金を出せ、と。そういう事で、そこで誰かが日本人の代表が出てて、なんだかんだ言っている間に我々は堤防の反面を匍匐前進しながら駆け上がって帰ってきました。
00:02:00 それでもう夜になってから、暗くなってとぼとぼと歩いていると向こうからジープが来て、自分の顔を懐中電灯で照らして、「もう安心だよ。あなた方はもう命の危険はないから大丈夫だ」と。アメリカ軍の設営したキャンプ村に連れて行かれました。そこで一週間寝泊まりをして、私は釜山に向けて、他の連中は仁川の方に向けて行ったんですが。そこで水豊から来た連中もみな、同じバスに乗りながらも、ちりぢりになりました。私は、釜山に到着してから一週間くらい倉庫の中に寝泊まりをして、何という船だったか忘れたけど、引き揚げ船に乗りまして、やっと博多の港に着きました。博多に着く前に、なんかあの辺の、島の松の形が、非常に日本的な、絵に描いたようなきれいな形をしているわけですね。やっと日本に帰ってきたという実感が湧きました。
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博多に上陸したら、博多の郊外にとめられていたんですけども、なんというか、ペストみたいな伝染病がはやっているから、今上陸できないと言って、一週間ばかり止められました。それは本当か嘘か分からなかったけど、上がってみたら何もそんなことはなかったですね。博多に上陸して、一泊して、それですぐ帰っていきました。
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列車の切符を買うのにも、ずらーっと列を作って並んでいると、朝鮮人のやつらがどかどかっと来て、一番列の先頭に立って、「われわれは戦勝国民なんだ。お前たちは後回しだ」と言いながら、先に切符を買って、勝手に通っていきました。私どもは、朝鮮でいじめられて帰ってきたから、帰ったらもう朝鮮人をやっつけてやろうと思っていたら、それどころじゃなくて、もう日本人はみな萎縮してましたね。第三国人とか戦勝国民とかいう顔をして朝鮮人がいばりくさっておりました。まあその辺ですね。まあそれから先もずっと、引き上げ後の苦労はありますけど。この話は天皇陛下の話と別ですから。とにかくあの、パスポートもない状態で、いわゆる難民と称して、とぼとぼと自分の命は自分でまもるんだということで歩いていた、あのころの経験は、もういまだに忘れることはできません。やっぱり国の勢いというか、国力がなければだめですね。そういうことです。
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杉森: 写真を捨てていきなさいと言われたとありましたけれども、どうして写真がいけないものだったのでしょうか?
加須屋: ああそれは... とにかく印刷したものはだめだということで、それに類することだと思いますけど、もうとにかくもうたくさん捨てられてましたよ。そういうことを言われたらもう鵜呑みにして、とにかく早く前に進みたいという気持ばっかりでね。そんな文句を言って、どうでしょうね、なんで写真はだめなんだって、反問することもできなかったですね。もう乞食みたいなものですよ。
杉森 : 何かそういう命令をする人は、朝鮮のお役人さんみたいな人なんですか。
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加須屋:
いや、各部落で作っている自警団みたいな形で。自分たちは、何か武力をもっているわけではないんだろうけど、とにかくそんなような警察官よりちょっと一段上の、兵隊じゃないけども民兵みたいな形のグループですね。それが各部落にみんなおったんですよ。一ヶ所だけ、何日目だったか忘れたけど、学校の校長先生が、気の毒だから泊まっていきなさいと言って、校舎をあけてくれたんですね。そこで寝泊まりしたことが一回だけありました。もうあの頃は 排日が非常にきびしくて、あの抗日というのか、日本の悪口を言えば味方だと。いくつもひどい目にあって、あの校長先生は、あの排日運動のひどい時に日本人の味方をして泊めてやったということで、後で部落民からだいぶ制裁を受けたんじゃないか、そういうことを心配しながら私は、後片付けをして出てきました。あの先生にはいつか会ってお礼を申し上げたいと思います。
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杉森:
内地で戦時中の時に、言葉遣いのことでなんか色々厳しい状態であったということを伺ったことがあります。たとえば、新聞に、天皇陛下が載っているかもしれない新聞をたまたま踏みつけていたりしたら、それは不敬だといって、検挙されたとか。学校の式典で校長先生が天皇陛下の言葉を間違えて言ったら、それがなんか不敬だと。(その)間違いはとても深刻なことで学校を校長先生が辞めたりだとか。極端な例だったら、自殺したりだとか。 そういった事が言葉のことであったと聞いていますけれども。加須屋さんの場合は、内地じゃなく、日本国内でないところにいらっしゃいましたよね。状況も違うと思うんです。朝鮮の人がどれだけ一生懸命勉強したとしても、日本で生まれ育った人の様に日本語ができたとは思えないですし。難しい難しい漢字も。敬語も難しかったと思うんですけれども。そういうものは、そうした敬語のようなものは、朝鮮の人で勉強していた人は分かっていたと思いますか。
加須屋:どうでしょうね。しかしあの頃使っていた言葉...「天機ひときわ麗しく」といって新聞に出ていましたよね。天皇陛下のご機嫌が一段とよかったということなんですけれど。そんな言葉は、天皇陛下が出る時に限ってそういった言葉を使った。これは今はもう、そんな...今から考えたら、ちょっと不思議な気がしますね。そういうことで皇室を護ろうという...私から言わせれば右翼の塊のみたいな人が、皆色々と集まってやっていたんだと思います。
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杉森 : その人達はそうでしょうけれど、朝鮮の人は分かっていないですよね。
加須屋: 分かっていなかったと思いますよ。
杉森 : その頃は新聞を取っていらっしゃいましたか。
加須屋 : いや、私は新聞は取っていません。私は独身者寮のせいき寮という。独身者ばかりが30人くらい集まって寝泊まりしてた所に住んでいましたけれども、新聞は食堂に1枚あるだけで。新聞もあまり発行していなかったんじゃないんですかね。特に山の中の発電所ですから。都会の真中とちょっと違って。あんまりそういうジャーナリズムとの接触というのも殆ど無くて。ラジオだけだったですね。テレビも勿論ないし。後はうわさ話で。風のうわさか何かで運んでくる様なニュースだけだったね。だけど、ラジオはもう。あの当時まともにNHKが言っていることが正しいのだと信じておりましたね。朝鮮人の方もおそらくニュースは日本人から聞く位しか入ってきませんでしたからね。本当に今から思えば、言論弾圧というか。お前たちは何も知らなんでもいいんだ。お前たちはとにかく俺たちについて来いという政治だったと思います。ただ、私の母親たちは、兄弟は台湾からの引き上げですけれども、台湾は違ったですね。台湾はちゃんと新聞も読ませてたし。私どもが住んでいた所は桶磐浅(タンパンセン)という。「桶」に、常磐線の「磐」に、「浅」いという字を書いて、タンパンセンと。台湾語の住所の呼び名なんですよ。そこが正式に使われていたんですよ。それで台湾語の住所を使っていたのは台南でもそこだけだったですね。日本式に本松とか、西くわしだとか大宮町だとかそういう名前はたくさんついていましたけれど。台湾人が台湾語の呼び名で読んでいる地名というのは我々が住んでいたところだけだった。そこが警察の官舎街だったのですよ。何十戸という警察官舎ができていまして。そこの一帯が桶磐浅(タンパンセン)という地名でしたからね。そういう風に、台湾の政治は非常に穏やかで優しい。そういうところだったという感じがします。それがもう、朝鮮ではとにかく日本語を押し付けて。創氏改名とかいって、朝鮮人の金(キム)さんには「カネシロ」だとか「カネオヤ」だとか、何かもう、ものすごく変な名前をつけて、呼ばせて。それを嫌で、やっぱりあの朝鮮語の言葉を使っていた人も沢山おりましたけれどね。まあ、そんなところです。
杉森: 今の新聞のことでちょっとご質問なんですけれど、イギリスのチャールズ皇太子が日本に来られる時に、日本の皇太子に会う時に、「皇太子様はチャールズ皇太子に会われた」という様に、日本の皇室の人にだけ「様」をつけて、チャールズ皇太子には「様」とかつけない報道がされていまして。それを言葉の上で差別があると海外のメディアから批判されています。そういう敬語の使い方についてどんな感じを受けられるでしょうか。
加須屋:
あまり気が付かなかったですね。皇太子様という言い方は他の...チャールズ皇太子様とつける... 皇太子というのは 職名というか。地位を表す言葉ですから、それだけでも十分だと思うんですよね。「皇太子様」でなくて、「皇太子殿下が...」と。そういう風にやるべきではなかったんでんでしょうかね。
杉森 : 両方の国の皇太子について(ということですか。)
加須屋 : そうそうそう。そういった方が公平であって自然であったと思いますけどね。
杉森 :
普通、目上の人が目下の人には使わないのですけれど。皇室の赤ちゃんについては「愛子様がお泣きになった」の様に赤ちゃんでも「様」が付けられています。もし新聞に同じ 面にもしかして赤ちゃんの記事が別にあったとしたら、皇室ではない所の赤ちゃんには「様」とかが付いていない記事が出ると思います。ある赤ちゃんには「様」が付いて、ある赤ちゃんには「様」が付いていない。そういう不平等が出てくるかもしれないのですけれど、そういう赤ちゃんにも「様」を付けるような報道の言葉遣いについてどう思われますか。
加須屋: あまり気が付かなかったですけどね。赤ん坊であっても。皇太子なんかでなくて、その子供であっても、「~宮様」という形で言ったほうがいいんじゃないですかね。ちょっとあまり、実感が無いですけどね。
杉森: それでは皇太子妃雅子さんのお父さんの小和田さんが雑誌のインタビューで自分の娘に会ったという事を言う時に「先月、妃殿下にお目にかかりました」という風に、自分の娘にあったことを敬語を付けて表現しておられます。この敬語遣いに違和感をもちませんか。もちますか。
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加須屋: それは妃殿下が皇太子妃になったやっぱりその時点で、親であっても自分の娘に妃殿下と申し上げるのが当たり前だと思いますけどね。
杉森 : どうして当たり前だと思われるのでしょうか。
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加須屋: だってもう皇太子妃になれば、それがそっくりそのまま地位も表すし、尊敬の意味も含むもんだと思いますからね。
杉森: はい、ありがとうございます。それでは最後に、これだけは言っておきたいという、なんでもいいですから自由にお話しください。
加須屋: 最近、やっぱり皇室の在り方について新聞やラジオの報道は少しぞんざいになりがちだと思いますね。私が頭が古いのかもわかりませんが、皇室に対する敬愛の情というのか、言葉にやっぱり気をつけるべきだと思います。
杉森 : 皇室のことでなくてもいいんですけど。
00:16:00
加須屋 : いやもうあまり今の新聞報道に関してあまり文句も言いたくないですけどね。
杉森 : ありがとうございました。
加須屋: どうも。失礼しました。