00:00:00 杉森典子:川西さんは、えー、神戸にお住まいになっていらっしゃったとお伺いしました。
川西美枝子:はい。
杉森:で、えっと、終戦の頃とか、どのように、何をしていらっしゃいましたか。
その頃のことで覚えていらっしゃることをお聞かせください。
川西:はい、えー、戦時中昭和二十年3月の17日の神戸大空襲のことをお話いたします。
でその時は、えー、あたしの家の近くで空襲警報が鳴りました。
そして家族全部が、その、防空壕へ、大きな防空壕へ入る知らせが入りまして皆で入ったんですけれども、父だけはもう僕はこの家で死んでもいいって、父はもう絶対に避難しませんでした。
そしてその大空襲へ入って、そうしたら飛行機は私の方の親と飛行機の音はするんですけれども、あの、爆弾を、焼夷弾を落とされた形跡がございませんのでね、出て、私達が外へ出て見たんです。
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そしたら東の方の、多分、兵庫区あたりだと思うんですけれどもね、そこにいっぱいその飛行機から焼夷弾が落ちているんです。
その様子がもう本当、なんか花火が、四角い花火がもう落ちてくるような感じで、いやー、私とこの方は落ちないけれどね、兵庫区の辺りだったら私が勤めてた会社の辺りかなあと思って心配してたんです。
それでもう私達の方はもう、あの、もちろんその時は空襲警報でしたけれども皆外に出てね、その向こうの方の焼夷弾を落ちるのを見てましたんです。
それで私はその頃、あの、神戸乾物会社って言う会社に勤めてましてね、それは中央市場という所にあるんです。
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でその中央市場の地下には絶対に爆弾が落ちても大丈夫だっていうことでしたので副社員の方たち、もちろん私も、あの、大事なものを全部そこへ、あの、疎開させに行きました。
あの、だからあたしの学校時代の卒業アルバムとか大事な着物とか色々なものを母と、あの、車に積んで、車と言いましても大八車です。
その時乗用車などありませんのでね。
積んで、あの、疎開させました。
それが三日後に、の3月17日に大空襲でそれが全部焼けてしまったんです。 だからあたしども学校時代のね、その思い出の写真が一枚も無いのでね、あの、秋本さん(友人名)にもお話していただいたり、鶴見さん(友人名)っていう方にもお話していただいたりしてね。
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まあ、その、思い出の写真だけは数枚は今も頂いてね、あの、してるんですよ。
だけど、まあ、私たちは本当に助かって良かったんですけどね。
その、向こうの方の兵庫区の方、もちろん会社でも、あの兵庫区から来てはる方もいはるのでね、あの、あの方もお家どうだったかなと心配しながら明くる朝、やっぱり出勤せんと行けませんのでね。
あの、昔、市電が通っていました、あの、松原通いう所をね、私会社までね歩いて行ったんです。
あたしが住んでる所は長田区、あの、庄田町いう所にあるんですけれどもね、そこからずっと歩いて、1人で歩いて松原線通ってもうずいぶん長いことかかって会社に辿り着いたんですけれどね。
その途中でね、ふっと向こうの方のね、あの、電車の向こう側見たら黒いのがね、人のような黒いのがね横たわってるの見えたんです。
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であ、この人はきっと焼けたんだわと。
焼けて逃げてる途中にもう燃え尽きて、本当黒くなった人の体ぐらいの長さの、そういうのを私見た時にね、もう一瞬ね本当もうびっくりするやら、ええこれが近くではないんですよね、電車通りの向こう側だから。
でも感じとしては、あ人間の誰か人が焼け焦げになったんだわという感じは十分に受けたんです。
もうそれがもうすごく印象に残ってね、もう今でもその光景はもう忘れられません。
で人は誰一人通ってないんです。
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で私がてくてくてくてく会社に歩いて、
でその、あの、乾物会社っていいますのは、その他に水産会社とか海苔の組合とか卵の会社とか色んな業種の、あの、いわゆる食べ物屋さんもありますし卸売業社さまも皆集まった神戸の台所なんです。
でそこで、あの、あたしも、まあ女の人もたくさんいましたけれども男の人は皆召集して、で私が会計を受け持って、でもう専務さんのお嬢様もきてはって、その方たちともう一人女の方、2,3人、女ばっかりでした、ほとんどね。
それとおじいさんと、皆若い人はもう召集で兵隊さんに行かれてね。
それで行っても会社あらへんのです。
それでもう衝撃でね、あらあたし明日からどうしよう、会社がないし。
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どなたも見えてないんです。
ということはそこの方のお家で、が、その空襲の焼夷弾が落ちるのにおおて亡くなられた方やら行方不明になられた方が多分いはるので私のように離れてて被災に遭わない人は、私は行きましたけど、皆さん多分被災された方は、あの、もう出勤どころじゃ無かったと思うんです。
杉森:会社は何人いつも一緒に働いていらっしゃったんですか。
川西:会社ですか。
杉森:うん。
川西:そうですね、色んな方で20人ぐらいでしょうかね。
それでもまあ大きな会社、乾物関係の会社のね、引き受けてしてはったからね。
杉森:出勤されたのは川西さん一人。
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川西:いえいえ。
杉森:次の日、その、その・・・。
川西:そう、次の日、それはねあたし次の日、それで行って誰もいはらへんからね、じゃあもう自分はもう、あたしはもうそれこそ心傷ついてますしね、しますのでもう私会社行くの怖いって、途中でそんな見てますのでね。
それで2日か3日ほど休んだんですけれどもやっぱりお勤めしないとねいけないと思って。
それからやっぱりずっと歩いて行ったら、まあぼちぼち皆さん色んな話持って来てはりました。
だけど、まあ亡くなった方、それからお家焼けた方が本当ほとんど、三分の二ぐらいそんな方でしたわ。
だから今度物を仕入れるにしてもその仕入先、そこがやっぱり焼けてなくなったとか、色んな事があったことをまあそれは覚えております。
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それからまあしばらくして、まあ一ヶ月ほどすれば、まあなんとか、あの、仮の会社みたいなもん作ってねお仕事は始めたように思います。
でも、まあ、あの取引先も色々四国の方やら丹波の山奥やら色々なことを仕入れて、なんかぼちぼちそれからお仕事始まったように思います。
それからまあ記憶が、今は覚えていますのはそういう乾物会社、水産会社、卵会社、海苔の組合とか色々ありますからね、その、あたしのとこは高野とか椎茸とかいうそういうもの扱ってるからその水産会社へそれをあげるんです。
そしたら向こうの方は、あの、お魚類、一夜干しとかそんなものをね交換っていう感じでね、交換っていう感じでね、あの、食べ物には不自由はしませんでした。
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まあ皆さん食べ物ない時期でね困ってはったんですけども私はお陰さまで、あの、食べ物には不自由なく。
まあ、不自由なくって言ってもやっぱり配給時代でしたからね、まあ色んな事もありましたけれどね。
でもまあなんとか元気に、私子供兄弟5人ですけれども今皆、あの存命しております。
杉森:ありがとうございました。
川西:あ次ですか。
杉森:どうぞ。
川西:あの今まではね、あの会社間同士の、あの社員同士のおつきあいとか、そんなんは今までは
全然なかったんですけれどもね、あのーそういうように空襲に遭って、品物がなくなった、入らなく
00:10:00なった、いう時に、あのー私の方は乾物会社から高野やらお椎茸やらそんなものをお隣の水産会社
の人とお魚と交換して、そしてみなそれで社員配給があったり、こっちの卵の会社の人と交換して卵
を手に入れたり、言う事でまあお互いに交換で助け合ったということでそこらへんの社員さんとも仲良
くなり、そして今度は社員同士で仲良くなったらね、一人水産物会社に、そう私のクラス会の一人が
ね、あの、いはったんですけれどもね、その人とも仲良くなったりしてね、それでわたしに気の合った
女の方がね、宝塚が好きやからね、あのーわたしそのとき岩崎って言ってたんですけどね、「岩崎さ
ん宝塚見に行かない?」「どうして席を取るの?」って聞いたらね、「水産物会社のね、そのお魚を
00:11:00持ってね、干物を持ってね、「その係の人が知ってるんです、事務所の人を知ってるからね、その人 に頼んでね、券を取ってもらいます」言うて。
それで、あたし、宝塚ってって本当、初めてだったんです、その時にね。
それで、あの、宝塚に連れて行ってもらったことを覚えております。
杉森:それはいつ頃のお話ですか。
川西:それはもう戦後です。
あの、三月の17日の空襲のあと次々に原爆やらが落ちて、で、八月のはつ、、、15日に敗戦の日迎 えましたでしょ。
あの時は私らは、もう事務所でね、あの、ラジオを聞いてて、みんな一斉に泣きました。
本当、ええ日本が負けたのって。
それはもうはっきりみんなが泣いておったのを覚えております。
それと、あの会社から出世しはった方、その中に私一人好きな人がいたんです。
それで、その人もね、出征しはって、ほんで、は〜帰ってきはるんかな〜どうかな〜なんか思って心
00:12:00配はしてたんですけど、まあ無事に帰ってきはりましたけどね、まあやっぱり戦争に行かれたら人間
が変わるのかどうか、なんか、まあ前よりも優しさがなくならはった方になりました、その男の方が ね。
だからもう、私とはもうあの会社の社員同士としてのお付き合いはありましたけれどもね、個人同士 のお付き合い以上には進みませんでした。
まあ、そんなことで、あの、そうして宝塚も戦後ですけどね、そして物々交換のおかげで、宝塚もつれ
てってもらったり、で、あちこち、ま、一緒に他の会社の人と一緒に、あの、いろんなところへ行って ね。
やっぱりそのときは品物、品物あげたら、特に食べ物をあげたらすごく喜ばれるんですよ。
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でも、ま、もう、色んな配給がありますけれどもね、大豆とか、お砂糖とか、、、ほんで、もちろん衣料
なんかも、あの切符の配給でね、切符で、もらって、並んで、もらった切符で、私が覚えてますのは、
銘仙っていうね、織物でね、そいでまあ、私の着物作ってもらったのは記憶にありますけれどもね、ま
ああの色々そういうことで神戸では、三宮で闇市場がね、できたりね、あの、あ、あの時にそう、コト
ブキいうお菓子屋があるんでけどね、今はもう大きくなってますけどね、そこで、あの、でもそこは、最 初カレーから始めはりましたわ。
そのときに食べたカレーがもう大きなジャガイモやらニンジンやら、みんな、もう大きく切ってあって、
そのおいしいっていうよりも、ただ、食べておなかが大きくなったらそれで満足やっていう感じの、あ の、カレーでしたけどね、でも、その時はおいしく感じました。
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家でそういうね、お肉の入ったものなんか食べられないからね、あの、まあテレビでもよくね、あの、
敗戦の時のあの進駐軍の往来してる、あの、様子よく見ますけれどもね、三宮でもやっぱりそういうこ とは私見ていました。
だからまあ、今思ったら、まあ本当に遠い遠い昔のことですけれども、まあなんか私は色んなことを経
験してきて、今やっと88歳、米寿を迎えたんだなあと思って、もう今日はもう感慨深い一日でございま す。
杉森:ありがとうございました。
川西:よろしいでしょうか。
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